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自由
自由
愛しているから、縛る。 ーーそれは、本当に「愛」なのだろうか。 「あなたの為だから」 「心配だから」 「大切だから」 「好きだから」 目の前の人を大切にしようとする時、私達は、このような言葉を使う。 だからこそ、時々考えたくなる。 「大切にしたい」 というその気持ちの正体とは。 本当に相手の為なのだろうか。 それとも。 「あなたの為」 という言葉の奥に、 「だから、私の言うことを聞いて」 という気持ちが、隠れてはいないだろうか。 『愛するということ』 エーリッヒ・フロムはこの本の中で、愛と支配を明確に区別した。 愛する能力がない人は。 相手を支配しようとする。 何故なら、支配するためには。 相手が、自分から、離れられないような。 無力な存在でなければ、ならないからだ。 相手が自分で考え、自分で選び、自分で歩けるようになれば。 いつか、自分の支配から、離れていってしまうかもしれない。 だから、相手の自立を恐れる。 「あなたには無理」 「私がいないと駄目」 「あなたの為を思って言っている」 そうやって、相手の無力さを強調する。 相手を助けているように見せながら。 実は、相手が自分から、離れられないように、してしまう。 それは、愛なのだろうか。 ⸻ フロムが考える愛。 そこにあるは4つ。 基本的な要素がある。 配慮。 責任。 尊重。 知識。 まず、「配慮」 愛するとは、相手の生命と成長を、積極的に、気にかけること。 「好き」 とただ思うだけではない。 相手が生きること。 相手が成長すること。 相手がその人自身の人生を歩いていくこと。 そのことを大切にする。 だから愛には、 「働く」 という側面がある。 大切に思うなら、その人の為、何かをする。 育てる。 支える。 必要な時に手を差し伸べる。 愛は、ただ心の中にある感情ではなく、行動になるものなのだ。 ⸻ 次に、「責任」 ここでいう責任は、 「義務だから、やらなければならない」 という意味ではない。 誰かが助けを求めている。 苦しんでいる。 何かを必要としている。 そのことに気づいたとき、 「誰かがやるべきだから」 ではなく、 「私が応えたい」 と、自分の意思で応答する。 それが、フロムのいう責任だ。 ⸻ 3つ目に、「尊重」 相手を助ける。 相手を心配する。 相手の為に働く。 それだけでは、まだ、 「愛」 にならない。 何故なら、そこから簡単に、 「私があなたを助けているんだから、あなたは私の言うことを聞くべきだ」 という支配が生まれてしまうからだ。 だからこそ、尊重が必要になる。 尊重とは、 「あなたは、あなたである」 と認めること。 自分とは違う考えを持ち。 自分とは違う価値観を持ち。 自分とは違う人生を生きる。 唯一の人間として相手を見ること。 そして、 「私のために、私の望む人間になってほしい」 ではなく、 「あなた自身のために、あなたらしく成長してほしい」 と願うこと。 ここに、愛と所有の大きな違いがある。 恋人だからといって。 恋人は自分の所有物ではない。 親だからといって。 子供は親の所有物ではない。 友人だからといって。 友人は自分の思い通りになる存在ではない。 「大切な人」と。 「自分のもの」は。 同じではない。 寧ろ、本当に大切に思うからこそ。 相手には、自分とは、違う人生があることを、認めなければならない。 自分の側にいてほしい。 自分を選んでほしい。 自分を好きでいてほしい。 そう願うこと自体は、悪いことではない。 けれど。 「そうしてほしい」と願うことと。 「そうしなければ許さない」と縛ること。 これは違うのだ。 愛することと、所有することは違う。 ⸻ そして、4つ目に、「知識」 人を知るというのは、 「この人は怒っている」 「この人は冷たい」 「この人は面倒な人だ」 と、表面だけを見ることではない。 何故怒っているのだろう。 本当は不安なのではないか。 心配しているのではないか。 孤独なのではないか。 罪悪感を抱えているのではないか。 その人の言葉や行動の奥にあるものまで、 「この人は一体何を感じているのだろう」 と知ろうとする。 勿論、相手を理解することは、相手の行動を、何でも許すことではない。 怒鳴ることを、理解したからといって。 怒鳴られても、我慢しなければならない。 決して、そういう訳ではないのである。 傷付ける行為を理解したからといって。 それを、受け入れなければならない。 決して、そういう訳ではないのである。 ただ、 「悪い人だ」 と決めつけて、終わらせず。 その人を、1人の人間として見ようとする。 それが、フロムのいう「知」なのだと思う。 ⸻ そして、1つのことに気づく。 愛することは、意外なほど難しい。 何故なら、愛には保証がないからだ。 自分が大切にしたからといって、相手も自分を大切にしてくれるとは限らない。 自分が信じたからといって、裏切られないとは限らない。 自分が手を差し伸べたからといって、その手を握り返してくれるとは限らない。 それでも尚、 「それでも、この人を大切にしたい」 と行動する。 フロムは、それを「信念の行為」と呼ぶ。 だからこそ人は。 「愛されないこと」 を恐れているようでいて。 「愛すること」 そのものを恐れているのかもしれない。 本当の、本当は。 ⸻ 愛されたい。 大切にされたい。 必要とされたい。 捨てられたくない。 傷付けられたくない。 それは、ごく自然な願いだと思う。 しかし、 「愛する」 ということを考えるなら。 もう1つ。 自分自身に問いかけなければならない。 私は、相手を愛しているのだろうか。 それとも。 相手を失いたくないだけなのだろうか。 私は、相手の幸せを願っているのか。 それとも。 相手に私を、幸せにしてほしいだけなのか。 私は、相手の成長を喜べるだろうか。 それとも。 相手が、自分から、離れていくことを恐れて。 成長さえ、止めようとしていないだろうか。 「あなたの為」 と言いながら、 「私の為」 というように。 …そのように、なっていないだろうか。 ⸻ 愛することは。 相手を自分の側に置いておくことではない。 相手を自分の思い通りにすることでもない。 相手から自由を奪うことでもない。 相手が、その人自身として生きていけることを願うこと。 そして、そのために、 配慮し。 応答し。 尊重し。 知ろうとすること。 それが、フロムのいう、 「愛する」 ということなのだと思う。 だからこそ、愛は怖い。 相手には、自由があるからだ。 そして、自由があるということは、 「自分を選ばない自由」 相手には、それもあるということだから。 それでも。 相手を、自分のものにしようとはせず。 相手の自由を、奪おうとはせず。 相手が、自分自身の人生を歩いていくこと。 私は願う。 たとえ、その道が。 自分とは違う方向へ、続いていたとしても。 それでも、 「あなたが、あなたらしく生きられることを、私は願っている」 と言えるのか。 もしかすると。 愛するということの難しさ。 それはそこにあるのかもしれない。
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