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自由
コーヒー豆_レベル._アイコン.boussatha
2年前
現在22歳。自分がADHDだと去年の秋頃分かった。思えば昔から人の話が聞けなかったり、集中できなかったり、逆に好きな事には極限まで熱中できたり…思い当たる節が多くある。 こう自覚して、ADHDを深く知った事で、僕は両親が憎くて仕方ない。なぜなら両親2人ともこの症状に当てはまっていて、遺伝なのでは?と考えるからだ。父は失言を多く言う事から色々な所で居場所を無くしていた。仕事でのミスは多く、何社も大損害や押領などでクビにされている。母は部屋を片付けられず、家の半分を1年のうち一回も着ない服で埋め尽くしている。学校の友達を家に呼んだ記憶は数えるほどしかない。これ以外の症状も2人にはあり、どちらもADHDである。こんな2人が長続きするわけもなく、小6の頃に離婚した。 僕自身も遺伝したADHDとADHDの親がつくる環境で生きる事で辛い思いをしてきた。両親の欠点は漏れなく自分にも備わっていた。そのため、小6〜中2までいじめに遭い、勉強も部活の団体行動でも一苦労だった。 しかし高校になるといい友人に恵まれ、少しずつ人との話し方が分かってきた。新設のコースで1クラスしかなく、男子は7人だけ。特段いじめもなく全員で固まって行動していた。この時から少しずつ、自分の部屋だけでも綺麗にしようと掃除も頑張った。両親から受け継いだ欠点は少しずつ克服されていった。 受験では奇跡の補欠合格で自分にとってかなりいい大学に受かることができた。最低日東駒専に1人を除いて行けていたクラスで、ビリの自分がそれよりランクの高い大学に入れたのはクラスメイトと先生からも驚かれた。 だが大学でも挫折が多くある。やはりランクの高い所は自分には不釣り合いであった。勉強は大変で友達に助けてもらってばかり。自分の無能さが許せなかった。 大学生の時、コロナ禍も重なり鬱病になった。布団から起き上がる事ができず、夜は発作が止まらなかった。初めて心療内科に行った時は自分が心底情けなかった。親友に号泣しながら電話をしてしまった。悪いことをしたと今でも思ってる。 トリガーとなったのは以下の二つ。家では両親がマンションの権利を巡って争っていたことが一つ目。僕と母が住んでいても父は名義は俺のだと、出て行けと言ってきた。マンションが欲しい理由は借金の担保だか何だか…とにかく良いものでは無かった。相変わらず父は問題を起こし会社を転々としてるらしい。今でも解決してるのか分からない。 生活費が苦しいと言っていたので月3〜5万円バイト代を入れていたことが二つ目。これが一番辛かった。お金もなく交流関係を広くつくれなかったし、彼女はもちろんできなかった。掛け持ちもたくさんして10万稼いでも実質5〜7万円。大学生で手取りを経験することとなった。また、バイト先では無能ポジで周りに迷惑をたくさんかけた。その結果もらえたバイト代も一瞬で家に吸われてしまうのが辛かった。唯一塾講師や家庭教師は向いていたらしく、楽しくやる事ができた。 さてようやく冒頭の部分になるが、自分がADHDだと最近知った。このせいで自分は周囲より劣って生まれ、劣った両親の劣った環境で育ったあまりこの程度の人間になってしまったのかと悔しかった。せめてもっと普通の家庭であれば、もっと上へ行けたのではないか?と。周りはそんな事ないのに、ADHDと母子家庭というハードモードをなぜ自分は歩まなくてはならないのか?と。 そう思ってから両親が許せなくなった。母にはここまで育ててきてもらったのは分かっている。理不尽に怒っているということも。しかしこのハードモードを歩まされてきたのは事実。子を育てる資質もお金もなかったのは明白であった。それなのに世間体を気にしてか、「子育てやってみたい!」という軽い気持ちかは知らないが、その被害に遭っているのが生まれてきた僕である。 今は月々のお金も出さず、口も聞かず、ご飯も別々で食べている。家に入れる筈だったお金を自炊に回している。気楽でいい。春には社会人として一人暮らし。この地獄みたいなゴミ屋敷から逃げられると思うと嬉しくて仕方ない。それまでの辛抱。 しかしこの先も不安だ。就活は粘って最終的に決めた会社は夏頃に内定がもらえ、終えたのは遅い方だ。 ニッチな業界とはいえ上場してる大きな会社。またたくさんの人に迷惑をかけるのではないか。怒られるのではないか。嫌われるのではないか。とにかく不安。 このまま自分でもいつ爆発するか分からない爆弾を抱えて生きていかなければならないと思うと本当に辛い。
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